オーストラリア/シドニーから。
APLAC/SYDNEYの別館。漫画紹介や趣味系の話をここにまとめて掲載します。

漫画紹介:[芝村 裕吏 (原著) キムラ ダイスケ]  マージナル・オペレーション~国、民族を越えた「子供と大人のまっとーな交流」

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 珍しい純粋軍事モノなんだけど 同時に以前紹介した「ばらかもん」のように子供たちとの温かい交流を描いたもの。芝村さんの小説をコミカライズしたもので、僕は小説はまだ読んでおらず漫画単体としての評価になるのだけど、よかったですよ。

 こういう読み方は異端かもしれないけど、社会からネグレクトされた者同士が、国籍、民族、年齢を越えて魂で結びつき、寄り添い合って生きていく物語のように思います。


 まず主人公が社会からネグレクトされてます。

 主人公のアラタ(新田良太)は、日本の成年男子で、ゲームとラノベが好きでほんわかウダウダやってて、気がついたら皆に取り残されてる。やばいと思って就職したら、年下上司にネチネチと怒られる毎日。心を閉ざすことでやりすごしてきたら、会社も倒産してしまってまた無職。ニート境界線上を浮きつ沈みつしてて、未来は絶望しかないというのが最初の状況。

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割のいい就職だと思って入ったところが、自由戦士社という純粋にビジネスとしてのアメリカの傭兵企業。傭兵といっても沈着冷静にゲームのように用兵を行う戦略・戦術能力が求められるオペレーター職。必要なのは明晰なゲーム脳

 

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主人公は、閉ざした心の冷血さと、生来の戦略才能がゲームで開発されていたことから、優秀な成績をあげて抜擢されていく。

 

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中央アジアの少年兵
 もう一方は、タジキスタンの少年少女兵。世界のあちこちにちょっかい出してるアメリカ軍が政府軍の支援をし、反政府軍につかないように国中の昔ながらの部族達に圧力を加え、逆らった村は見せしめに殺される。そんな中で部族の大人たちに捨てられ、使い捨ての消耗品としての扱いを受ける少年兵達。親たちから捨てられ、仲間が毎日死んでいき、自分も遠からず死ぬんだろうという諦念を幼い心に刻みつける。

 

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 日本で行き詰った主人公と、世界に捨てられた子ども達がタジキスタンの戦場で邂逅するところから物語が始まっていきます。

 

作戦室のコンピューターばかり見ていた主人公が、外に出て生々しい戦場を見る。自分が単に光点として処理していた戦術が、生身の人間たちだということを改めて気づいて、閉ざしていた心が傷つき、傷つくことで蘇るそして年端もいかない少年少女が捨て駒として無残に扱われていることに、素朴に激怒する。「こんなの、間違ってる」と。

 

 ここがこの物語のマジックの部分だと思います

 

ご都合主義的な展開といえばそれまでですけど、なんでアメリカの傭兵会社の契約社員が、中央アジアの少年兵に「今更ながら」の義憤が湧くか?です。

 

 原作者さんの意図は知らないけど、僕の解釈では、「それまで主人公の心が死んでたから」だと思う。

 日本のあまりの閉塞状況に心が死んでしまった主人公は、死んでるがゆえに人を犠牲にするのもゲーム感覚で冷酷にやれるから優秀なオペレーターになれた。皮肉なものです。しかし、作戦室にひきこもってたのが、いきなり苛烈な戦場に出たことで、ショック療法のように心がまた動き始めた。そこでは子供のように新鮮な普通な感覚でものが見える。だから、「子供が兵隊?冗談だろ?なにやってんだ!?」という当たり前の感覚になれたのでしょう。

 これが最初から心が生きてたら、あまりにも過酷な現実を目の当たりにして、逆にだんだん心が死んでいって、少年少女が無惨に殺されていてもなんとも思わなくなっていったでしょう。また、思ってたらやってられないでしょう。物語後半でこの対比がまた出てきます(キシモトさんの悲劇~後述)。

  しかし、日本社会で心が死んでたからこそ、過酷な現実を冬眠状態みたいにやりすごせた、温存できたってのも本当に皮肉な話ですよね。

 

 だが、主人公に生じた心の死と再生は、少年少女達も同じで、親や部族に裏切られ、売られ、ひたすら殺し合いをさせられ、意味もなく死んでいくしかない情況で心は死んでいた。

 

  しかし、とあるオペレーションで、主人公は、全滅に瀕した少年部隊をありったけの能力で立案し、誘導し、生還させる。また、少年達に接しているうちに自然の情愛にうたれたアメリカ人傭兵であるオマルもまた、この作戦で子供たちを率いていたところ、主人公の作戦で救われる。

 少年たちにしてみれば、初めて本気で自分たちを守ってくれる大人に出会った

主人公も初めて本気で守らなければならない大切なものに出会った

 このように過酷な戦場で、心の再生が重なり合ったところが、この物語のマジックの部分だと思います。

 

 可憐な少女戦士ジブリール(めちゃかわいい)が、私達を見守って導いてくれる「イヌワシさん」と呼ぶところはなかなか感動的でした。 主人公と現場の少年達が出会い、少しづつ交流が生まれる。

 

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 死んだ心が蘇った者同士の魂の交感というミラクルなことが起きた。マジックというのはその部分で、ここがこの作品の本質的な部分だと僕は思います。

 

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 部族から捨てられた子供たち、そして「会社」を辞めた主人公とオマル、皆で生きていくために新たな傭兵(警備)会社として起業することを考える。

 

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子どもたちの傭兵ビジネス起業

 既に主人公はこの業界でもそこそこ名が知れてきたので、「ビジネス」は進み、無敵の「子供使い」と呼ばれてさらに有名になる。日本に帰国したときも、当然のように公安のマークが入るくらいになる。

 

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 舞台は東京→タジキスタン→東京→タイと転々とします。


1年ぶりに日本に皆を連れてきて本拠地にしようかと思うものの、ビジネス的においしくなく(紛争の程度が低い)、また当然公安関係から目をつけられ、うまいこと利用されることになる。暴走する宗教団体と犯罪組織のいがみ合いをけしかけ打撃を与える公安当局の狙いのとおり、東京都内で「作戦」を実行します。当局の援助を受けて国外に脱出した先はタイ。ここでは、もっと悲惨な子供たちがスラムにいて、その子供たちを助けるNPOに警備として雇われる。

 

戦闘フェチに陥らない合理の戦術論
 いくつかのポイントがあると思うのですが、一つは戦闘シーンの特異性。
 

戦場&軍事モノというと、大の男が肉弾戦やら戦闘メカを使ってスリリングな情景を描くパターンが多いのですが、この漫画は戦術という頭脳戦がメインです。本当にゲーム感覚、というかゲームそのものの論理で進んでいく。そこでは、感情を殺し、冷静に状況を分析し、断片的に入手できた情報をどのように位置づけていけばいいか考える。徹底的に「合理」の世界です。

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それが新しいし、面白い。

 

 と同時に、女性と子供が頻繁に出てきます。大人の男性の登場率など主人公とオマルを除けば10%くらいで、日本の公安も、タイのクライアントも全部女性です。あとは圧倒的に子供たち。

 格闘術やスポーツ、あるいはヤクザ系と純粋軍事の相違点ですが、生の肉体性はわりとどうでも良い。また戦闘メカも必要なんだけど絶対ではない。

 つまり、ありがちな身体フェチ、メカフェチな部分がない。その種のオタク的なマニアック性は捨象して、いかに限られた資源でいかに最大の戦果をあげるか?どの兵力をどのタイミングでどう使えばよいかという、将棋やチェスのような知能戦が大事だと。

 確かに鍛え上げられた肉体も、寝てるところをビルごと爆破されたら終わりですし、優秀な戦闘メカも相手が見つからなかったら使う機会もない。

 マッチョな肉体性ではなく、知能戦をベースとしているからこそ、女、子供、そして半分ニートだった主人公にもお鉢が回ってくる。


 このパラダイムって結構大事な気がします。

 僕のような男性は軍事とか闘争とかいうと、アドレナリンが出ちゃって、どうしても戦闘を「楽しむ」っぽくなったりするわけですよ。盛り上がったりする。マニアなのよね。 でもマニア的快楽を得ているうちは所詮アマチュアで、リアルにはそんなもんあんまり意味ない。また、大人の男性が世の中動かしてるわけでもないということ。

 しかし幼少期から戦場で戦ってきた少年兵達の訓練された動きは、もう「年季が違う」って感じで、手始めに日本の空港でラリって刃物振り回してた男=粗暴だけど戦闘術としてまるでド素人=を、少年達にあっという間に制圧している。

 

 また、日本の公安の依頼を受けて戦う羽目になった日本の暴力団や宗教系テロ組織すらも全く問題とせずに、それこそ子供扱いにして制圧しています。

 

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見えないの世界の現実
 もう一点は、世界の現実です。中央アジアタジキスタンの紛争など、日本人としてはまるで知らない世界なのですが、そこにもこういう現実があること。アメリカなど先進国が世界でやってることは、地元の一つの立場から見ればこう見えているのだということ。もちろん立場が違えばまた違うのでしょうけどね。

 タイのスラムの子供たちの現実。貧国から急速に経済成長する歪み。昔は貧しいながらもまだ池や川があって、無一文の子供たちも魚を取って食べることができたが、それも開発されて奪われ、本当に金銭がないと生きていけなくなった。

 経済=貨幣経済の浸透が、弱き者達の生きる場所を奪う現実。これは日本の明治維新のときもそうで、米だけでやっていた農村は、貨幣中心になったために食い詰め、ある意味では江戸時代よりも悲惨になった。奴隷小作人になるか、兵隊さんになるか、女郎になるかしか選択肢がないという。

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 そして、力なきものが生きるすべといえば、幼児売春であり、人身売買であり、臓器移植であり、傭兵である。自分を商品として売るしかない。そこから逃れるために少年たちのために仕事を作ろうとするのだが、今度は低賃金で搾取してるとか、子供を働かせているという先進国の「人権」の論理がそれをいちいち潰していくという現実。考えさせられます。人権とかそんなレベルじゃないんだけど、豊かな先進国では想像力が貧困だからそこまで思い至らないのでしょうか。

 主人公が日本の公安と会話をするときに、「僕の心は国なんかにはありませんよ」と言い放ち、そのあとに「国が子供たちを守るならこの限りではありませんが」と続ける。

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24人の父親になってしまった
 しかし、そういったことは枝葉の論点であって、メインに描かれているのは、主人公と子供たちが死線をともにする中で、力強く愛し合っていく絆の深さでしょう。日本で半分死んでるような主人公が、なんの因果か、24人の子供たちの父親になってしまい、彼らを生かしていくために頑張る。

そのために子供たちに戦闘させなければいけないという根本矛盾が主人公の胸を締め付ける。しんどいんだけど、しかし、生き甲斐を見つけた喜びがそこにはあります。子供たちも、心から自分たちを愛してくれる大人をみつけ、またかけがえのない仲間たちと過ごす。矛盾に満ちていながらも、確かな愛情と「家族」としてのつながりが描かれていて、そこは本当に胸を打ちます。

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壊れていくキシモトさんの悲劇
 一方、主人公と同じく日本から就職した先輩格のキシモトさんは、同じような経路を辿りながらも、主人公のように子供たちのために、そして子供たちと共に戦うことを選べず、あまりにも無残な現実を見せつけられて心が壊れ、狂ってしまいます。その対比を描いているのが最新刊の9巻です。

 本当はキシモトさんの方が、子供想いで、子供のために敢えて傭兵稼業に身を投じていたのだけど、それが逆に深く心を傷つけることになっている皮肉。

 心が死んでおらず、愛する娘のために一生懸命働いていたからこそ、心が壊れてしまった。世界の矛盾にも何とも思わなくなり、最新刊ではほとんど廃人レベルに気が狂っていきます。

 

 キシモトさんが悩んだ挙句、傭兵会社に入って中央アジアに赴任する朝、自分のために必死に仕事に行く父親の姿になにかを感じたのだろう小さな娘が、去りゆくパパの背中に、「おしごとがんばれ!」って泣きそうになりながら叫ぶシーンは、ほんと涙出てきた。

 

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大人と子供まっとーな交流

 最後に評論ぽく書くと、読んでると違和感なくなってくるのですが、このストーリーに、この子供たちの絵柄というのが、最初はあれ?と思うのではないでしょうか。目が大きく、可愛らしい、いかにもマンガチックな絵柄で、ハードな内容にちょっとそぐわないかと。しかし、この絵柄だからこそ、このストーリーが読めるというのはあると思います。これがもっと写実的な絵だったら、ちょっと陰惨な感じもするかもしれない。

 それに、作者さんが本当に描きたいだろうことは、子供と大人のまっとーな交流であって、それは随所に出てくるラブコメチックで、ギャグ風味もあるような、ほんわかした部分だと思うのですよ。設定が戦場とか傭兵だからミスマッチ感はあるのだけど、でも設定を取り外してしまえば、もともとそういう話なのだと思います。テーマ的には合っていると。

 もう一点は、「ダーウィンズゲーム」(また紹介するかも)という作品にも言えることなんですけど、最初ヘタレだった主人公が、みるみるうちに強くなって、どんどんカッコ良くなっていくのですね。そしてモテモテになってしまうという。この出来過ぎ感はちょっとありますね。

 ただ、反面では、そういうこともあるだろうなーとは思います。自分の本来の力を発揮する事ができて、自分以外の大切なもののために全力を尽くしていけば、自然とカッコ良くもなるし、モテもするだろうしね。ファンタジーのようでいて、リアルでもあるとは思います。


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このアーティクルは、本家の今週のエッセイ843 で書いたものを加筆修正して載せました。

 

 

 

 

 



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