漫画紹介:[中川いさみ] マンガ家再入門 ~全てに通じる現代商業アート作家インタビュー集
~巧まずして人生やら全てに通じる創作の悩み
先日の今週の一枚エッセイ第862回:「わからない」恐怖感情と知的劣化スパイラルの冒頭でこのマンガの一部(鴻上尚史さんの部分)を紹介しましたが、今回はこの本まるまる紹介します。
中川いさみさんは、キャリアのあるギャグ漫画家で、代表作の「クマのプー太郎」
はちょうどバブルが弾けた頃の日本(91年~)にビッグコミックスピリッツに連載してました。僕、大ファンで、単行本が出たら買ってました。当時いわれていた不条理マンガで、意味なんか全然わかんないんだけど、でも面白いという。「よくこんなこと思いつくなー」という発想の自由さが楽しくて。
四コマ漫画集なんですけど、こんな感じ(サンプル選びだしたら全部読んでしまって苦労した、、てか選べないからもう無理やり)
この「耳伸ばし」とか、「なに食ったらこんな馬鹿なこと思いつくのか?」って感動しましたねー。しかも「法律を守ってる猫」というもう一捻り追い打ちかけてくるし。
こういうの凄い好きですね。皆が意味や理解を追い求めるのって(それは大事なことだけど、しかし)、そればっかだとクソつまんねーなとは思いますね。本当に面白いことって意味わかんないですし、意味わかることだけやっててもつまんないですから。
というわけで中川先生、ギャグ漫画家として成功されているんだけど、それでも「ストーリー漫画を描きたい」と新チャレンジをしようとする。僕より2つ下で、もういい年なんだけど、それでも激しく新しいことをやろうとするところは、共感ですね。50歳過ぎてからがいよいよ本番、これまでは単なる肩慣らしって意識はすごくある。
ストーリー漫画なんかさらさらっと描けばいいじゃんって思うんだけど(ギャグの方がよっぽど難しいとされているし)、さすがに一家をなすだけの人ですので、すごーく真剣に考える。そこまで考えなあかんのか?ってくらい考えて、いろんな人に教えを請いに行きます。
この漫画は「いろんな人」から話を聞いてる部分を描いてて、結局、「中川いさみがストーリー漫画に挑戦」というドキュメントというよりは、「日本の商業アート界のプロ達が創作のノウハウや哲学を語るインタビュー集」になってます。
圧倒的な普遍性
そして、さすが一流のプロ達は言うことが違う。てか全員違うので真似できないし、知ったからといって出来るもんじゃないんだけど、注目すべきはその普遍性です。漫画やアートの話をしてるんだけど、自分の生き方とか、社会との関わり方とか、内容そのものは哲学論文集といってもいいくらい濃くて、深いです。読み応えあります。
あまりにも普遍的に通用するので、ある程度人生経験のある大人だったら誰でもそう感じたことがある話になる。僕の過去のエッセイのなかでも、まんま同じことを書いてるものが多々ありました。誰でもそう思うんだなーって。
例えば、
これはアイディア創作と無意識世界の話なんだけど、でも、人生全てに通用します。僕も長いこと生きてて「ほんとそうだなー」って思うし、それは過去に何度も書いてます。例えばEssay699:岬の先端~救援ポイントとか、Essasy533「ひょん」~神の一撃とかがそうですけど、ポイントは
(1)何をやっても絶対どっかで行き詰まる、しかし
(2)思いもかけない展開があって解決する
(3)「考えうる手段は全て試した」というギリギリまで行かないと展開はこない
という点です。
絶対そうなるか?といえば、絶対ではないですけど、意外なくらいそういうパターンは多い。就職でも結婚でもトラブル脱出でも何でもそうです。弁護士時代いろんな人たちの人生の岐路を何百人と見て、APLaCやって海外挑戦者を千人以上見てきて思うのはコレ=「思いもかけない展開」がくることであり、結局、そこまで頑張れるか、その前に自滅するかの差だなーと。「思いついたけどやってない」のがあるうちはギリギリまで行ってないから、救援はこない。
だから皆への相談やアドバイスも、素朴な本音でいえば、「やってりゃ、そのうち何とかなるよ」という力まかせなもので十分なんだけど、でも、そんなこと20代や30代ではなかなか確信レベルまでは思えないです。それほどの人生体験積んでるわけでもないし、今の傾向として皆さん「わかってないと不安」だろうし。エッセイでも、そこを論理的にあーなってこなーって四コマ漫画を30コマくらいに引き伸ばして手順を踏んで言うことになります。「なぜそうなるか?」は、突き詰めていけば、けっこう理屈で説明できちゃうし。
この漫画では、アイディアが作品として昇華するまでのプロセスや、その過程における産みの苦しみ、記憶のランダムな結合の試行錯誤の末、あるとき何かが「降りてくる」って話なんだけど、でも社会や人生一般にもまんま通用する。結局、ひとりの人間の内部に起きている出来事のパターンというのは、世界一般のそれと同じなんですかね。ちょっと不思議な気がする。
この漫画はそんなのが山盛りでてきます。
現実をそのまま言うと嘘臭くなる法則
松本大洋さんのインタビューで、現実に面白い体験をして、それをそのままリアルに描くと、意外と面白くない。てか嘘臭くなってしまうというお話が出てきます。だから漫画にするときは、現実の話を割り引いて、つまらなくして描くほうがいい。
これはワーホリさんの話とかでよくありますよね。以前、インタビュー動画を撮ってるときがあって、その中でも、「これ、自分のことだから本当だってわかりますけど、他人の話だったら、僕、絶対信じないですよ。”ぜってー嘘だろ?話作ってるだろ?”って思いますよ」「そんな都合のいい話、めちゃくちゃ嘘くさいですよね」って。
実際、リアルに書けば書くほど嘘臭く感じられるもんです。オーストラリアはいいよー、世界観かわって、「人間っていいな」って人が好きになるよ、それがどんだけ気持ちいいかってことだけど、僕もHPで「いくら書いても嘘くさく感じられるんだろうなー」って書きましたしね。でもいくら嘘くさく響いても、本当なんだから仕方ないんだけど。
多分、海外でいろいろ体験した人が、日本に帰ってあれこれ話しても同じ悩みにぶち当たるんじゃないかな。それは、受け取る側が、「よくあるリア充の自慢話」みたいな貧しい記号処理をしちゃうからだと思うのだけど、もう「通じない」でしょ。
難しいんですよ、やったことない人に伝える=その人の世界観の外にあるリアルを伝えるのはめちゃくちゃ難しい。だからテクとしては、敢えて間引いていくか、逆にもっと濃密にリアルにしていくか。
知識が技術になるまで3年かかる
アーチストの寺田克也さんの話も参考になります。
デッサンとか新しい技法を学んでもすぐには使えるようにならない
これは英語なんかもそうですね。
知識はね、ガリ勉すればある程度いくのですよ。ただ。24時間の日常のなかで打てば響くように使いこなせる(完璧ではなくても)まで3年かかるというのは、感覚的に納得できます。
「英語」を「海外」に置き換えてもいいです。「海外」で自分なりにやっていけるようになるまで、やっぱ3年くらいはかかると思います。それはその国のあれこれを知るとか、語学が伸びることもあるんだけど、もっとベーシックなところで。
言うまでもなく「海外」という名前の国はなく、それぞれに違います。でも、合計で3年くらいいろいろ生活してみたら(旅行だけでは効率悪い)、大体一人前になるかなーと。まあ「3年」というのは腰だめの数字で、正確に統計とったわけでもなんでもないんですけど、「そのくらいの期間」はかかるという感じ。1年くらいじゃ無理だろうなー、でも10年とかはかからないんだろうなーって。
これを30コマくらいに引き伸ばして解説したら、多分、「自分」というのはすごく膨大な量の情報体系だと思うのです。とある部分を新規増築しても、旧来の部分と融通無碍に連結するわけではない。英語でも「英語話すぞー」と頭を切り替えて、新館まで出向かないと英語がつるつると出てこない。でもやがて新館と旧館が融合していって、旧館のどの部分からでも新館への連絡通路が設けられ、さらには同時存在するようになる。
ただ、そうなるには時間がかかる。漬物やウィスキーで発酵時間がかかるように、膨大な情報体系のあちこちで新旧結合点が増えていって「ならす」まで時間がかかる。それが3年というのは、なんとなくわかります。
「海外技術」も同じで、何が違うかというと、その国のことに慣れるのではなく、「これまで当たり前だと思ってたことがひっくり返される経験」に慣れてくることだと思う。全ての固定観念のロックを外して、浮かしておけるようになり、それが脳内の全情報にあらかた行き渡るのに時間がかかると。慣れてきたら、「あ、そゆことね」とすぐに切り替えて、新事態(現実)を受け入れて対応できるようになる。それが出来ないうちは、「なんでじゃあ!」「ふざけんな!」って思うのよね。だもんで、28歳くらいでWHできて、AUS,NZ,カナダの「大三元」で3年くらいやってると、いい感じに慣れてくると思いますよ。大抵のハプニングにも「はいはい~」って軽く対応できるようになったら、研修修了って感じ。
これは結婚なんかもそうかもしれない。
一緒に暮らしだすと、当たり前に大事にしてたことが、相手に平然と踏みにじられますからねー。げ!とか思って喧嘩になる。もう、くっだらないことで喧嘩になる。僕も、味噌汁に入れる豆腐の大きさをめぐって「普通、このくらいだろ?」「そんなの異常!」とか大喧嘩したことあります(笑)。それが3年くらいたってくると「二人の普通」が段々出来てくるのですよね。
創作と無意識
無意識世界の重要性は、多くの人が指摘しますね。
糸井重里さんのインタビューの中でも出てきますが、この人はさすがに「個人的に面白い感覚」と「世間的に受けるマーケティング」をずっと繋いでいただけあって、なかなか深いです。
何度も強調されているのが、最初のマーケティングありきでやってると、詰まらなくなること。本当に「おもしろい」というものは、そういう意識的、意図的なものではなく、無意識の自分から出てきたものが多い。
そのあたりの「とりつくろってない自分」「理屈や意識に毒されてない自分」が出てくるなると、いいものが出来る。
ここは突き詰めて考えてなかったけど、こんなの思うの俺だけだろうなという疎外感バリバリで書いたのが実は共感を呼んだという経験は何度もあって、それはやっぱ気持ちいいですね。「なーんだ、そうんだったんだ」って。
創造というのは、小賢しく理屈で考えようとする自意識をいかに殺すか、スルーするかみたいなところがあって、この人の場合、なんかの拍子に間違えたときが面白い着想のとっかかりになると。
これくらいの一流のプロでも、無意識と対話するのに苦労してる。そのくらい無意識がすごくて、実は正確で、理屈でやる自意識と記号処理がいかにダメかという話は、僕も過去にさんざん思い知らされてます。エッセイでも無意識の話は多いし(ESSAY 536/無意識と直感 ~偉大なるブラックボックスの声を聞け)。
なんでそんなに無意識がいいかというと、絶妙な表現で描かれてました、
理屈や、スペックなどの記号処理でやると、いかに間違えるか、いかに危険かです。シェア探しでも、お見合いでも、就職でもなんでも、事前情報ではいいと思えたものが、実物みたら「なんだ、これかよ」って思うことは多い。
「直感で決めると大体間違いないよ」というのは、現地のWHさん達にいつもアドバイスしますけど、そこで直感(無意識=自分)を信じられるようになる(理屈に騙されない)訓練こそが、一生レベルでいえば最も重要な体験になるとも思います。そのためにも、いろいろ体験して無意識や直感そのものを鍛えていくのが大事なのでしょう。なんせ絶対経験量が少なかったら無意識もしょぼいし、不正確(ただの偏見と大差ない)。というわけで、この無意識や直感というのは「これ以上の人生の財産はない」って思えます。
たくさんの自分
皆の話を聞きながら、中川さんがあれこれまとめていくのですが、これがまた面白いです。さすがプロが描いてるだけあって、抽象的な概念をイラストで説明するのが巧すぎる。
自分だけの無意識オリジナルを強化させて、それを活用することになるんだけど、そのためには自分探しというか、「自分磨き」って話になる。
でも、自分は一人ではない。いろんな自分がいる。それを一人で統合させようとするからしんどい。思うのですけど、「自分」って独立した一個の人格があるんじゃなくて、宇宙に星雲や銀河が散らばってるように、幾つもの自分を構成する「断片体系」があるのでしょう。
第三者に接するときは、ナマのまま出したら何がなんだかわからないから、見苦しい部分をトリムして、連続性をもたせるように統一的なイメージで構成します。いわば「よそ行き仕立て」です。統合失調症というのは、最後の部分のよそ行き仕様が機能的に出来なくなっちゃったんでしょう。だから、僕らもナマの原状態では、統合失調的であるのでしょう。ちょうど夢の世界の中の脈絡のなさ、荒唐無稽さのように。
創作においても、自分の中のいろいろなキャラを立たせて(優しい自分、熱い自分、虚無的な自分、邪悪な自分とか)、それを作中人物に投影させていくといいかもって話につづきます。
ESSAY 499/サイコロ的人間関係論で書いたのですが、自分の中にはいろんな自分がいて、それを誰の前では何を出すかってことだと、それと似てる。発想のもとにあるのが、最初から「自分」は沢山いると思うこと、自分は一人しかいないとは思わないことです。
実践ノウハウ
これは皆さんにブログやったら?とか勧めるときによく言いますが、テーマを先に決めて書くとすごくしんどいよ、って。とりあえず何か書いてみると、それが呼び水になって、また書きたいことがでてきて、それが~ってつなげていく方がやりやすい。
最初の一行とかでも、できればカッコよくない方がいい、もっともらしくない方がいい。くっだらないことの方がむしろいい。その方が自分の刺激になりますから。
もっともらしい出だしにしてしまうと、もっともらしい出だしに自分が縛られて、「いい子ちゃんモード」になってしまう。でも自分というのは、実は「いい子」じゃなかったりするから、そこで発想が途絶する。読書感想文が書きにくいのは多分そこ。「スポーツマンシップにのっとり」とかさ、本当に全然思ってないから、その先で絶句してしまう。
他にも沢山たくさん紹介したい部分があるし、それだけ一本かけるくらい内容が深いんだけど、キリがないからこのくらいにします。面白いですよー。