音楽:YELLOW MONKEY 「天国旅行」 ぞっとするほど甘美な自殺賛歌
なんでこの曲を書いた人がまだ生きてるのか、不思議
と言うのは、この曲を聞いた知人の感想ですが、ほんとそう。真剣にヤバいです、この曲。
曲の前半部分は、自殺念慮の心情描写なのですが、
それは「甘酸っぱい」としか形容のしようのない酸味のある感情。
自我がゆっくりと融解する甘くとろけた心地よさ
そして入水自殺の実況中継
人っ子ひとりいない快晴の海
膝から肩へと水位を増し
やがて絶命し、腐乱し
最後には「僕のいない世界」まで描写されている
こんなことを歌ってもいいんでしょうか?
もちろんいいんですけど、普通ビビって歌わないよ。インディーズのライブハウスでやるならまだしも、メジャーのアルバムで堂々とやってるところが凄い。
自殺をモチーフにした曲でも、発表までの過程でなんらかの「自己規制」が入って、「ああ、もう死にたい」的な気分描写で「寸止め」するか、あるいは「でもやっぱり生きようよ」的な「ポジ転」させるとか、ポリティカリー・コレクト(※政治的正しさとか訳されるが、要するに波風立てないための建前論)が入ったりするものです。
でも、そういう物珍しい衝撃度だけで騒いでいるわけではありません。
まず、楽曲のクオリティがいいです(日本語わからなくても楽しめるだけの質はある)。次に、この曲の自殺コンセプトのユニークさです。後者から先に書きます。
自殺の理由は全く無視
この曲がすごいのは、自殺の歌でありながら、なんで自殺することになったのかの状況説明が一切ない点です。
自殺には通例それなりの重い事情が伴うものですから、その事情の方にドラマの主題が置かれるものです。
例えば、「心中物」でも、この世では結ばれない二人があの世で結ばれたいと願う、そこまで追い込まれ、そして追い込まれることでさらに激しく凝縮していく愛の情念結晶があり、それがメインテーマになります。自殺のやり方とか自殺してて楽しいとかそういう話にはならない。
あるいは、幼児虐待やいじめなどで幼い命を断つ可哀想なストーリーは、その理不尽な現実を糾弾したり、その可哀想さをフィーチャーしたりもします。「マッチ売りの少女」の話は、あれは幼児虐待と子供の自殺のようなものですが、商品であるマッチを擦って優しいおばあちゃん(だっけ)の姿が浮かび上がり、天国でおばあちゃんに会いたいって願うという、もう涙なしには聞けない可憐な不憫さがあるけど、自殺そのものがテーマになってるわけでもない。「フランダースの犬」も「パトラッシュ、疲れたろう。僕も疲れたんだ」で愛犬とともに死の眠りにつくあたりで可哀想さがマックスになって見てる方は涙が止まらなくなります。
それが普通の自殺モノだと思うのだけど、その種の感情をゆさぶるような背景物語は、この曲に関しては一切無い。登場人物も自分だけ。「私を捨てた誰それ」なども登場しない。
ものすごーく抽象的な、ほとんど「純粋形而上学的な」と言ってもいいくらいな自殺であり、こんなリアリティのない話、誰が感動するか?ってことなんだけど、これが感動してしまうのですよ。
なぜなら、すごーく「わかる」からです。
限りなく甘い自殺念慮~胎内回帰願望
前半の自殺願望を何度か聴いてだんだんわかってきたけど、これって現実逃避の気持良さであり、ひいては胎内回帰願望の心地よさじゃないのか?
ひたすら自分の世界に引きこもり、生まれる前の不思議な世界にまで行ってしまいたい、知らないんだけどよく知ってるあそこに又帰りたい
わかるわー(笑)
これは、およそ誰でも(程度の差はあっても)どっかしら共感しうると思いますよ。なぜなら、エロス(生本能)とタナトス(死本能)は表裏一体といいますから。
この切ないくらいに気持いい自殺(胎内回帰)願望は、僕が書くより、日本でも有数の日本語能力を持っている(僕はそう思う)吉井和哉氏の歌詞を引用したほうがわかりやすいでしょう。
「薄れていく意識の中のVTRは回る」
ほんとにこの人のボーカルの感情の伝わり方尋常ではなくて、それがテクニカルに「感情をこめる」というのとはちょっと違う。
いよいよ、誰もいない海までいって、入水自殺を敢行するわけですが、まず、こんなデテールまで書いてるところが凄いです。
「潮騒の音 快晴の彼方」「そこに吹く風 その時の匂い」
ときれいな風景描写が入ります。
最初聞いてるときは、前半で「僕ちゃんもう死んじゃうんだ~」とむずかり甘えみたいな感覚で終わるかと思ってたんだけど、海まで来ちゃって、「え、マジにやるの?」とえらいことになってきたと思ったもんです。感情シンクロしてると、その後の展開で本当に自分が死んでいくような。
苦しさを越え 喜びになる
天国が好き 僕は幸せ
身体バラバラつくしんぼう
と続くのですが、「苦しさを越え喜びになる」「天国が好き」「ぼくはしあわせ」とまで言い切り、自分の身体が死後腐乱してドロドロに溶けて散り散りになっていくイメージを繰り返し繰り返し歌います。ここまでくると、もう自殺の歌というよりも検視報告のような感じすらしますが、本気で死にたいと思う人は死んだあとの自分の死体のなりゆきまで考えるのかな、、考えるんだろうな。
後半分をまた貼り合わせてあります。
最後の方、エピローグみたいな部分が1分ほど続くのですが、ピアノとギターのきれいな音です。ほんと平和で、美しくて。
でもそれは「自分がこの世から消えても、世界は何も変わらない」というイメージでもあります。
それが虚しいとか、だから死んだらあかんとか、そうではなく、ただそういうもんだと。そして、そういうものであることに納得している気がする。この世界から完全に自分が消えたことに納得しているよな、それをこそ望んでいたような、そして自分がいなくなった世界が美しくあってほしいと。
もう、徹底的なんですよ。
「やっぱ自殺はよくないよ、やめようよ」って部分が全くない。
100%死にっぱなしというか、なんのフォローもない、なんのオチもない。ただ死んでいくだけ。
こんな自殺称揚ソングを野放しにしていていいのか?なんて言う人がいたら(そんなにいないとは思うけど)、こんな歌一つで人ひとり死にますかいな。人間実在についての理解が薄っぺらいと思う。
自殺を異端視していない
ここで敢えて、ちょっとポリコレぽいことを言うならば、この曲は自殺を異端視してません。「自殺する奴なんかわからない」とか異物視してない。たぶん、そこが僕がこの曲を好きになるポイントなのかもしれない。
自殺願望なんか誰にでもあるよ。西欧の箴言(しんげん)だったかに、「1日に一回も自殺を思わない奴は馬鹿である。しかし、1日に2回以上自殺を考える奴はもっと馬鹿だ」とかあったと思う。なんで読んだのかな?遠藤周作あたりのエッセイかな
僕らが誰でも普通に思う感情、「なんかもう、疲れちゃったな」「休みたいよ」「やってらんないよ」って気分、そこから「ああ、もう全部放り出したいよ」「楽になりたいよ」という気分が続き、そして「死んじゃおっかなあ」って気分までは、同一線上にある。バス停でいえば「疲労」というバス停の次が「逃避」で、その次くらいに自殺がくるんじゃないのか。
だからそこには大いなる安らぎと解放があったりするわけで、この曲の甘美さはそこからくる。でも、現世にさよならする寂しさと悲しさもあるからそれが酸っぱさになり、合わせて甘酸っぱくなる。
これは別に鬱じゃなくても、健康な奴でも結構なるよ。「魔に魅入られる」という言葉があるけど、僕の先輩もマンションの屋上からなぜか墜落して死んだ。事故かどうか永遠にわからないけど、でもあの高い柵を自分で乗り越えているのはただの酔狂だったのか。でもそんな気配も状況も全然なかった。いや最初は酔狂で乗り越えただけかもしれない、でも断崖のようなヘリに立ってると、「魔」にひっぱりこまれる瞬間はあるのかもしれない。「ああ、もう、いいや」としたふとした心の傾きがそのまま行為につながってしまう。
他にも知人が何人か自ら命を断ってます。年をとるということは、それがそんなに珍しい話でもなくなってくることでもあります。まるで十数年に一度くらいしか会わない遠い親戚のように、死はそこに立ってたりする。
また、日本人の男性は40歳過ぎてから自殺率は急激にあがります。自分もその年代を過ごしてきたからわかるけど、男の40代は鬼門ですよね。あの「ネタ切れ感」はハンパないですから。何度も同じマンガを繰り返し読んでて、もう飽きたわってほっぽり投げるように死んでしまう感じがする。
僕自身、そんな凄い感覚になったことはないのだけど、それって多分精神健康がどうのって話ではなく、ただの性格。それも、なんかすぐ思いついてしまうアイデア好きな性格。そして一度思いついたことは実際にやってみて答え合わせをしないと気が済まないという好奇心があるからだと思います。それだけのことだろうな、別に強いわけでもなんでもない。
話ちょっと逸れたけど、自殺という異常な世界を、誰にでもわかるような普遍性にひきもどしてるところに、この曲の凄みがあるのだという話でした。
背筋ぞく
この曲の最後の最後で、「あ、今、死んだ」って音が入ります。直感的にわかる。
最初聞いたとき、自分の心臓も止まりそうになった。
曲を聴いて、初見で背筋がぞくっとするほど衝撃を受けた曲はそれほど多くはない。しかも音楽的な部分でなく、歌詞世界でそう思った曲は、この曲と、あと筋肉少女帯の「いくじなし」くらいかな。あれも最後に氷水ぶっかけられるような衝撃があるし。
楽曲的には
演奏などの楽曲的なことでいうと、 まずこの曲、凄い長いのですよね。オリジナルで8分27秒もある。もうこの時点で「売ろう」とか全然思ってないよね。イントロに1分、エンディングに1分半。特にそれほど難しいことをやってるわけでもないし、オーソドックスなサウンド。でも完成度高し。ミディアムテンポのゆったりしたグルーブに、イエモンならではの「昭和歌謡」のテイストあるメロディライン、美しく叙情的なピアノと凶暴なギターが対置されるなかで、自我がゲシュタルト崩壊していくように、幸福に狂っていくヴォーカルが乗るという。
ライブだと今ひとつ雰囲気が違うんだけど、でも楽曲的な良さはライブの方がわかるかも。
イエローモンキーというバンドや、吉井和哉氏というミュージシャンについて、そしてこの曲が入っている「SICKS」というアルバムについては、語りたいことが山ほどあります。小出しにしていこう。