漫画紹介:五佰年BOX ~500年スパンのバタフライ・エフェクト
宮尾 行巳:五佰年(いほとせ)BOX
イブニングに連載中、去年の暮れにまだ2巻がでたばかりの作品。
カバー画像に惹かれて「ジャケ買い」のように読んでみたら、結構アタリでした。
もう発想がユニーク。「よくそんなこと思いつくな!」という、それだけでも買いです。
「誰も思いつかないことを思いつく」のって、めちゃくちゃ大変ですし、「今まで全く考えたことのない発想に触れる」ことは、ただそれだけでも快感ですから。
で、本作におけるその発想とは?→このカバーの画像のとおりです。そのまんま。
ふとしたことで古い木の箱を見つける。中を開いてみたら、ジオラマと小さな人が動いていて、そこは日本の中世の世界でしたーという、箱庭タイムトラベルです。
タイムトラベルは珍しくないし、日本の戦国時代にタイプスリップするのは、古くは戦国自衛隊、最近では「群青戦記」などがあります(中島徳博氏(「アストロ球団」の)も短編で描いてたような)。
しかし、「箱庭(だけ)」というのは僕が知り限りこれが初めてです。
※ところで、この作品は、イブニングの公式サイトで何話か無料で読めます。↓ 試し読みにどうぞ。
その着想だけなら、ただ「過去が見える不思議な箱がありました」というだけで、観察に終始するだろうから話が発展しにくいのですが、もう一つの要素が入ります。
500年前の世界と直接交流できること→歴史を変えてしまう=タイムパラドックスという要素が絡みます。
これでストーリーは俄然面白くなりますが、同時に収拾がつくのか?と心配になるくらい難解にもなっていきます。
主人公が、なんじゃこりゃ?で箱の中をみると、500年ほど昔(という設定の)中世の日本。戦国時代のはしりのような時代で、農民が野武士に襲われて、どんどん殺されている白熱のライブ。
そして、親子が殺されそうになっているのを、思わず(手を突っ込んで)助けてしまう主人公。
物語はここから始まる。
バタフライ・エフェクト的に歴史が変わり、500年後の現在に波及し、何かが変わっている。
主人公が密かに愛していた幼馴染の女の子が消えてしまう(男性の別人格になってしまう)。
取り返しのつかないことをしたと思い、なんとか元に戻せないかと思うのだが、この時点で力量に余る。
消えた幼馴染の婚約者だった人(でもこっちの世界では赤の他人)と一緒に「謎」を解明しようとします。
寄生獣に似た妙にすっとぼけたテイスト
ところで、読んでいて、なんとなく感覚が似てるなーと思ったのは、かの名作「寄生獣」です。
話のテーマも展開も全然違うんだけど、ドエライことが起きているわりには、主人公や周辺の雰囲気が、どことなくのんびりしてるというか、普通すぎるというか。
絵柄もあると思うのだけど、普通、これだけの事態になったら、もっと大騒ぎになったり、全編に緊迫感が漂ったり、漫画的効果(流線を多様したり、落雷のように画面が白黒反転するとか)をバンバン使ったりしても良さそうなんだけど、それを敢えてしない。淡々とした日常が淡々と描かれる。
凄い出来事を知ってしまったんだけど、誰にも言っても信じてもらえないし、言ったところで事態が良くなるとも思えないから、本人だけの秘密にせざるをえないという構造は寄生獣と同じ。だから何も知ら(され)ない世間は、いつものように淡々と描くしかない点はあるでしょう。
しかし、それだけではなく、どことなくすっとぼけた妙味というか、巧まずしてユーモラスになっているテイストがあって、それが寄生獣を彷彿とさせます。
仲間になった山崎さんと箱の法則性などを研究するのですが、
その淡々とした感じがなにか?といえば、僕は好ましく感じる、ということです。
ちょっとページをめくると、どーんと見開き2ページの巨大な顔が出たり、スペシャルな構図で描かれた「決めの一枚」が出てくるような漫画も嫌いではないです。それはそれでハリウッドみたいに面白いですしね。わかりやすいし。
でも、この種の凄いことが起きているわりには「淡々地味系」もまたいいなーと。
しかし、何がそんなに「いい」んだろ?と思ってしまった。
「演出不足」「盛り上げ不足」ということでネガ評価してもおかしくないんだけど、プラスに感じられるのはなぜか。
絵と物語の配合比率
助走のように、ちょい手前から考えます。
漫画は「絵」と「物語」が合体したものですが、絵に重きを置くか、物語に重きを置くかのレシピーが作品によって違ってて、「絵メイン+物語」系と「物語メイン+挿絵」系があると思います。
「画家が物語も作っている」のか、
「小説家が挿絵も描いている」のか。
この作品は物語主導でしょう。
ま、考えてみればそうならざるを得ないですよね。なんせ箱庭というせせこまい世界を描くんだから、バーン!ど迫力になりにくい。また、登場人物がフィジカルに凄かったり(ラオウみたいに)、特殊な能力を持ってるわけでもないです。いきおい地味になるのも当然なのかもしれない。
「寄生獣」はフィジカルに凄いから、「見せ場」は沢山あります。市役所での攻防での後藤の暴れっぷりとか凄かったですよね。だけど、絵が物語を置いてけぼりにしていなかった。絵の斬新さや凄さばかりが先行して、何をいいたいのか、今何がどうなってるのか良くわからないということは、「寄生獣」に関しては全然ないです。だから読みやすいし、名作と呼ばれるのでしょう。
他にも絵が先行しすぎちゃうパターンは、エロとか萌えとかが典型的ですが、要するにエッチな絵があったらそれでいいわけで、「手続き」のようにスチュエーション設定があって、物語がおまけ的に付加されるという。あるいは、見開き大ゴマで主人公の顔と必殺技の名前を叫んでるだけとうパターンが延々続くとか。こうなると絵しか感動ポイントがなくなってしまうのだけど、似たり寄ったりの絵が続くから絵がインフレ飽和してきて飽きてくる。
物語が先行しすぎているのもあります。よくあるのが「マンガ財務諸表入門」みたいなやつで、難しい内容をマンガによって易しく解説!ってふれこみで、絵は完全に従属物になります。
しかし、この種の本って、マンガだから分かりやすいか?という全然わかり易くない気がします。マンガというメディアを編集者が理解してないのかな?という気もしますが(書かされている漫画家の方が気の毒な気もする)、マンガ部分は博識の上司と可愛い新入女子社員とか、そういう「オヤジ願望設定」で、この二人が「わかんなーい」「それはね」「あ、そっかあ!」と会話が続く。その部分だけは確かに分かりやすいんだけど、肝心の内容の「(例えば)固定長期適合率とは~~なんだよ」と説明してる部分は、全然易しくなってない。マンガにすればやさしくなるってもんではない。やるなら、概念そのものをストーリーと絵で理解させなきゃ。これは物語メインというか、物語しかないようなケースです(挿絵にもなっていない)。
ということで、絵と物語の配合比率の話でした。
それがなにか?というと、この「五佰年BOX」は、明らかに物語メインです。デビュー作ということもあって、画メインにするほど傑出した画力がないという点もあるのかもしれないけど、物語をメインにして作っていこうのは感じます。
絵をより深く鑑賞するために物語がくっついているのではなく、物語を説明するために絵がついてくるという構造になっている。
その意味でいえば、本作の場合、絵は基本的に地味でもOKだと。だけどそれだけではない。もう一歩先があります。
絵柄と内容のマッチング
次にこの物語にはどういう絵柄がマッチングするか?という要素があります。寄生獣もこの作品もそのマッチ率が高い。
寄生獣の場合、いきなり顔がぶわっと壊れたり、スプラッターでグロい要素もふんだんにある割には、それ以外の大部分のシーンが普通の学園モノだったり家族モノだったりして、そこにすごいギャップがある。でもノーマルがちゃんとノーマルだから、アブノーマルがすごい際立つという対照効果があります。
それと地味目の絵柄の方が物語がわかりやすいという点もあります。寄生獣は、シンイチ少年とミギーの奇妙な友情物語であったり、数々の経験と葛藤を経てシンイチ少年が成長していく物語でもあります。そういった「文学的」な内容は、派手な絵柄で無い方が沁みてきます。
この五佰年BOXも、箱庭の方は戦国時代なんだから、やろうと思えばド迫力画像で構成することも出来ないわけではない。
しかし、メインテーマは、哲学的ともいえるくらいハードSFなのだから、じっくり読ませるためには地味目で普通の絵柄の方が合ってると思います。この話を大友克洋チックに描いたり、本宮ひろ志的に描いたりすると、作品の意味が変わってきてしまうような気がしますね。
バタフライ・エフェクトと実存主義的な
さて、この話の本題は、SFでもあり、哲学でもあり、ミステリーでもあります。
おなじみのタイムパラドックスやパラレルワールド世界になるのですが、まずこれ自体が難しい。いつも考えていると頭がこんがらがってきます。
さらにこの作品で新しいのは、自分自身も変わってしまう点です。
箱庭にちょっかいだした結果、幼馴染の真奈が消えて、その座には真樹という男性が存在することになっている。
ココまではこれまでのタイムパラドックスやパラレルものでもあります。
でも、この作品では、自分の中に、それまでなかった「真樹との記憶」がだんだん生じてくるという現象が書かれている。真奈も覚えているが、真樹も知ってる。二人が同時存在するわけないのに、両方知っている。そして時間がたつにつれて真樹が優勢になっていく。
そんなことがありうるのか?
もし主人公がパラレルワールド的に別の平行世界に移動=真奈世界Aから真樹世界Bに移動したら、真樹世界Bにいる自分は、真奈のことなんか知らないはずでしょう?なんで覚えているの?
そもそもパラレルワールドを「移動する」ってなによ?記憶も自我の同一性も保ったまま、平行世界Aから平行世界Bに移動できるなら(できるからこそ前の世界とココが違うと分かるわけで)、移動してるのは誰?AからBに移動したなら、A世界には自分がいなくなるわけ?
さらにややこしいのは、自分(主人公)以外の他人がこの箱庭を動かした場合です。
動かした本人の自我は保たれるのですが、主人公の記憶はあっさり改編されていて、主人公もそれに気づかない。
つまりタイムパラドックスの影響を受ける世界と、その世界の「観察者」の関係で難しく、ここで頭がウニになります。
これって、まるで自我とはなにか、現実に存在するものによって自我が規定されるとかいう「実存主義的問いかけ」みたいな感じ。主観とは客観によって作られる=そーゆー状態にあるからこーゆー人格の私になりましたって。人格の主体性がまずあるのではなく、まず客観事実があって、その上にのっかるように主観自我が作られる。だから、本作でも、パラレルワールドなりタイムパラドックスによって客観が変わると、自分自身も変わってしまう。
じゃあ、自分って何者なのよ?って深い深い疑問の谷に、あーっと落ちていくという。
それって、触れてはならぬ禁断の扉みたいなもので、ここを考え出すと迷宮に入ります。「これ、どうやって収拾つけるの?」と心配になってるのもそこです。
ところで、この箱庭BOXは、500年スパンでのバタフライ・エフェクトを観察するための実験器具みたいな存在だと思われるのですが、そうなるとさらに次の疑問が出てきます。
なんでこんなもんがあるの?
まあ、現実にはこんなモンあるわけないんだから、愚問といえば愚問なんですけど、どういう設定になってるのか?という話です。
冒頭に出てくる意味深な雲水(坊さん)の画像とか、真樹の子供の頃の記憶とか、この箱庭にまつわる何かの由来があることを示唆しています。
そこまではまだ語られていないのですが、なんか秘められた事情がありそうで、それがちょっとミステリー。
でも、ほんと、これ、どうなっちゃうの?収拾つくの?という興味は尽きません。
歴史オタク
この作者さん、これがデビュー作のようで、故郷で描いておられるようです。新人さんでこれだけ思いついて、作品にまで立たせてるんだから凄いなー。
また、巻末に書かれているようにご本人も歴史好きなようです。だから歴史の関係ある本作品になったとか。
というわけで、まだ二巻しか出てないのですが、発想と設定がユニークなので、新刊が待ち遠しいです。
何度もいいますけど、収拾の付け方があまり思い浮かばないので(もう夢オチくらいかしかないんじゃないか)、どうなるのかなーと。